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どんぶらこ。

川を流れる文旦の日常。

小説を読んでるとき

こんばんは文旦です。
最近小説を読むことが多い。というか前に書いた通り村上春樹の「1Q84」を読み返しています。


騎士団長殺しに手が出せていない - どんぶらこ。


で、この本を読んでいるときに気づいたのですが、いい感じに本に集中してのめり込んでいると、【その物語が本当にどこかで起こっているような不思議な感覚】がやってきます。物語、出来事、登場人物の半生、葛藤、そういったものが現実感を持っている気がするのです。

もちろん小説は誰か(作家)が作り上げた世界です。しかし私には、文章からその【誰か】の存在を感じられないのです。ブログやエッセイはもちろん、漫画や専門書では漠然と【筆者の存在】を感じるのですが、一部の小説ではそれがないんです。なぜだか。

ということで理由が何なのか、考えてみました。

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登場人物が一人ひとり別の存在として描かれているからか?
筆者自身のことを書いていないから? いやそれならば私小説は?
文章が上手いから?
これらも影響は持っているでしょうが、違います。違うというか、これば【小説のこと】です。私はこれを、受け手である【自分自身のこと】として考える必要があります。

自分自身のこととして考えるとどうなるか。自分がどう読んでいるときに、筆者の存在を感じなくなるのか。
【全体のストーリーよりも、各登場人物に共感し(ようとし)ているとき】ではないだろうか?
現実においては個々の出来事を俯瞰することが少ないです。というか私は俯瞰が苦手です。なので、それぞれの人物や人の動きの断片から日常生活での人間関係や出来事が出来上がっています。その断片から出来事を組み立てるのは少し大変です。
だから現実と同じように、人物の動きからストーリーが何とかかんとか浮かび上がってくると、自分は現実のように感じてしまう。



たぶんこれだ。ストーリを俯瞰した描き方(読者が全体を俯瞰しやすい描き方)をされると、そのストーリーを生み出した筆者に意識がいく。しかし全容が掴めていない登場人物の視点から描かれると【全てを把握している筆者の存在】を感じない。

ただよく考えてみると、前者のような小説はどれほどあるでしょうか。 小説の技法には明るくないが、主人公という存在があるように、特定の人物の視点から、人物たちの動きで物語が進んでいくことが多いように感じます。
では、問題は【自分が俯瞰していると感じるか】となります。

そうなるとこれは【自分にとっての分かりやすさ】の問題です。人物たちの動きから全体のストーリーが見えやすいとき、見えにくいときの違い。見えにくいときの方が、全容の分からないまま動く人物に共感しやすい。そしてそれは現実での出来事の捉え方に近い。
ただ(私にとって)あまりに分かりにくい書き方をされると、単に「訳が分からない」としか感じられなくなってしまい、現実感とはまったく別のものになってしまいます。

だからきっと、私は【自分にとって適度に分かりにくい小説】に対して、虚構っぽさを感じないでいる、現実感を感じているのだと思います。

そしてここまで考えてみて、これは【感じ方の問題】であって好き嫌いとは全く別の感覚だなあとも思いました。

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あーーやっとすっきりした。
どうも自分は文にして考えるのが向いているみたいです。しかし頭を使うのは疲れますね。